10月9日(土) 13:20-15:30 / 司会:大愛 崇晴(同志社大学)
バッハ《マタイ受難曲》演奏分析 ――1970–2000年の古楽の録音を比較して――
13:20-14:00 / 杉山 恵梨(大阪大学)
本発表は、バッハの《マタイ受難曲》BWV 244を事例に、2000年までの三十年間における録音の比較を通して、古楽実践の歴史的変遷を考察するものである。分析の対象には、ドイツ語圏(オーストリア、ドイツ、スイス)、イギリス、オランダ、日本の古楽の演奏グループによる録音を中心に据える。
20世紀後半、古楽の演奏グループが複数現れた。そうした展開に至る発端は、A. ドルメッチやW. ランドフスカなどの演奏家による18世紀以前の室内楽・声楽曲の復興的実践、すなわち20世紀初頭の「歴史的な演奏運動」にある。その潮流は、第二次世界大戦後、N. アーノンクールやG. レオンハルトを代表とするような演奏家に受け継がれて、バッハ演奏を中心に古楽実践は本格化した。アーノンクールによる《マタイ受難曲》録音は、ライヴ録音を含めて三種類(1971、1985、2000)ある。先の研究では、アーノンクールの1971年盤に対して、1950年代のK. リヒターなどによるロマン主義的な演奏との比較を通して、音の長さの変化が主な論点として指摘されてきた。例えば、D. ファビアンはリズムに着眼点をおいた分析(2003)を行っている。だが、古楽実践が進展した1970年代以降の精査を含む、包括的なバッハ演奏史研究には至っていない。
本研究の目的は、1970年以降の《マタイ受難曲》録音に、古楽の演奏理念がどのような影響を与えてきたのかを明らかにすることである。具体的な方法は、各演奏家が採用した楽器(オリジナル楽器またはピリオド楽器なのか)、演奏法、独唱者の声域、古典調律の情報を整理した上で、各曲にどのような速さの設定や表現(装飾、アーティキュレーションなど)がみられるかを分析し、比較するというものである。
J. E. ガーディナーやF. ブリュッヘンなどによる1980–90年代の《マタイ受難曲》録音に、「歴史的な情報に基づく演奏Historically-Informed Performance(以下、HIP)」の傾向が強くみられるようになる。彼らにも自らをHIPのプロパガンダとして売り出す側面はあったが、そうした作用もあって古楽の市場性は高まったと考えられる。1980年代半ば以降、音楽市場への古楽の進出傾向は顕著になった。1950年代に古楽実践の牽引者が着手したバッハ演奏の研究成果は徐々に広がって、《マタイ受難曲》においては特に、速さ、アーティキュレーション、楽器や声の組合せによるテクスチャー、といった音楽形成面に影響を与えてきたと考えられるのである。ただし、形式的な実行に留まっている古楽実践もあった。作品の「歴史的な情報」の一部であるテンポ表示に対する固執が見受けられるガーディナーの演奏(1988)は、その例である。こうした古楽実践には、HIPの演奏美学が極端に関与していたと考えられる。
編集された「クレド」の神学 ――グノーシスとシューベルト――
14:05-14:45 / 堀 朋平(国立音楽大学)
本発表は二つの目的をもつ。ウィーンの作曲家フランツ・シューベルト(一七九七~一八二八年)とグノーシス(主義)の接点を指摘すること、その顕著なあらわれを、ラテン語ミサ曲(全六作)の「信仰告白(=クレド)」楽章に作曲家自身がほどこした歌詞編集のプロセスに探りとることである。
シューベルトは、宗教音楽において宗派を超えた実践をみせ、しばしば自由な宗教観を記した。「神々しい」自然に「おのずと湧き上がる祈り」こそ作曲の契機であると述べる書簡(一八二五年)には、F・シュライアマハーの自由主義的な宗教論(一七九九年)との親近性が読み取れる(Stollberg 2014)。先行研究はこうした傾向を、スピノザを介した「汎神論」の影響によって説明してきたが、〈此岸における神性の充溢〉をことほぐ汎神論は一八二〇~二三年頃の創作にしか妥当せず、後年には「裏切られた汎神論(enttäuschter Pantheismus)」(Kohlhäufl 1999)の基調が前景化してくる。これに対し、シューベルトの創作をより広範に説明しうるのがグノーシスの理念であろう。シラーを介して受容されたグノーシス文書『ヘルメス選書』が親友の神学詩人J・マイアホーファー(一七八七~一八三六年)に愛読されていたという証言から、マイアホーファーの古代歌曲群にグノーシス神話が底流しているとする解釈もある(Shaw 2014; 堀2018)。神的存在が地上に堕し、痛みと虚無に耐え、天への帰昇を性的含みと共に熱望する、という話型がそのエッセンスをなす。
以上をふまえて「クレド」の歌詞編集に目をむける。この編集が作曲家の意志で漸次的に洗練されていったことは説得的に示されたが(Gingerich 2000)、それがいかなる思想性によるのかについては、「全能(omnipotens)」神の忌避を汎神論の流行から説明するといった現状にとどまっている。だがそもそも「クレド」の原型となった二~四世紀の諸信条をも考量するならば、シューベルトが忌避した「(死者の)復活(resurrectio)」や「(父子の)本質共有(consubstantia)」といった箇所は、グノーシスの排除を大きな動機として練り上げられた字句であることがわかる。したがって、これらの箇所が忌避されていった事実は、上述したグノーシスのエッセンスの前提をなす〈天地の隔絶〉ないし〈此岸における神性の不在〉という思想に作曲家がしだいに共感を強めていったことの間接証拠と考えるべきであろう。
こうしてオリジナルの「クレド」は、シューベルト独自の神学に改鋳された。歌詞と作曲家の関係からこの事態を捉え返すならば、ドイツ語歌曲において歌詞の権威を作曲家が覆す「解釈的ドラマトゥルギー」(Kramer 1998)の契機は、ラテン語ミサ曲においても立ち上がっていると言える。
「楽派」概念の成立:美術史と18世紀の総合音楽史および国民様式論との接合
14:50-15:30 / 朝山 奈津子(弘前大学)
本発表では、音楽史記述における「派」(以下、楽派)の語について、その導入の契機を美術史記述から辿り、また音楽の「様式」概念との関係を検討しつつ、とりわけ「楽派」が地名と結びついて定着した過程を明らかにする。
「楽派」は作曲家群を意味し、音楽家自身が名乗るよりも、後世に歴史家が名づけるものである。音楽史には、フランス=フランドルないしネーデルラント、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、マンハイム、ヴィーンなどの「楽派」が登場する。「楽派」は、17世紀まではイタリア、18世紀以降についてはドイツの都市が多い。またこれらの地名は、作曲家の出身地域、音楽家の集まった都市など、さまざまな意味合いを持つ。その妥当性やカノン化の経緯はすでに再考され、地名が各「楽派」の実態を反映しないことが指摘されている(Lang 1939, Robinson 1972など)。しかし、そもそも「楽派」を意味する単語school/scuola/Schule/école/scola自体は、土地や場所のニュアンスを含んでいない。一般的には、様式や技法の名称、人名、またジャンル名と連結した用法もありうる。地名との結びつきはどのように形成されたのだろうか。本研究は、地名の妥当性を巡る議論からは見えてこない根本的な問題を探るものである。
「楽派」の区分によって15-16世紀の音楽史を最初に叙述したのは、バーニーの『総合音楽史』(1776-1789)だった。彼は「イタリアの美術家と同様に音楽家にもさまざまな派schoolsが当てはまる」(III: 185)として、美術史から「派」を援用し章立てに用いたが、音楽史における「派」の定義や成立要件を詳しく述べなかった。
そこで本発表ではまず、ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家の生涯』(1550)以来の美術史の「派」概念を先行研究に基づき整理する。次に18世紀までの主な音楽史書のなかで、とりわけ国民様式を巡る言説を概観したのち、バーニーの叙述を検討する。これと同時期のシューバルト「音楽美学の構想」(1784/85)、および18世紀末からフォルケルの『音楽通史』第2巻(1801)に至る事典項目や歴史記述も参照し、キーゼヴェッターの「論考」(1829)と『西洋音楽史』(1834)における「楽派」概念の批判までを本発表の射程とする。
これら資料を通じて、「楽派」概念が音楽史に定着する過程が明らかになる。すなわち、当初は英国の音楽史家がイタリア・ルネサンス音楽を語るための型として採用したが、その後、独語圏の音楽史記述においてナショナリズムを主張する装置となってゆく。背景には美術史の原初的な文脈があり、またネーデルラント連合王国主催の音楽史論文の公募(キーゼヴェッター1829が一等賞)が転機をなしたことを指摘する。