〈一般発表・分科会4〉文学・文芸

9月 1, 2021


10月9日(土) 13:20-14:45 / 司会:萱 のり子(東京学芸大学)

銭鍾書「『ラオコーン』を読む」:中国詩における物体表現をめぐって

13:20-14:00 / 丁 乙(東京大学)

 本論は銭鍾書「『ラオコーン』を読む」(1962)において提示された、中国詩における物体表現をめぐる見解を再考するものである。銭鍾書は生前から中国二十世紀を代表する文学者とされ、また近年、彼の広い学問的思索は中国二十世紀哲学の頂点をなすものと評されるようになった(e.g.『世界哲学史8』2020)。中国の美学・芸術論の近代化において、レッシング『ラオコーン』は重要な参照項であり、特にその文学論との比較による中国詩の再考は、1920年代から60年代に多くの論者の課題となった。銭鍾書は「『ラオコーン』を読む」においてこの書物を批判的に参照し、独自の文学論を展開した。

 銭鍾書の立場は次のようである。詩と比べて絵画は空間内の物体を表現することに長けているというレッシングの結論には不足があり、中国詩の中に物体表現に優れている例があるという。本論は、彼の取り上げた例のうち李白の詩の「洞庭湖西に秋月輝き、瀟湘江北に早鴻飛ぶ」という句の考察に焦点を絞り、銭鍾書がいかにレッシングの論を発展させたかを検討する。銭鍾書はこの句が「洞庭湖西」と「瀟湘江北」という遠く離れた二つの場面を同時に語るものでありながら、それらが内容面で相互に呼応している点で、絵画に表現不可能なものであると論じている。彼はこうした文学的表現を一つのパターンと見なし、のちの『管錐編』(1979)においてもこの観点から『詩経』「巻耳」を新たに解釈している。

 銭鍾書のこの解釈は、詩画を比較するための具体的な基準を設定した点で独自性がある。レッシングは具体例を重視したが、最終的には理論の根拠を記号論に帰し、具体例の分析を十分活用していない。それに対し、銭鍾書は『ラオコーン』の記号論に基づく結論部のみならず、『イリアス』の場面を具体例として援用する第十三、十四章にも注目する。レッシングのたどり着いた結論、〈色彩、形姿を記号とする絵画は、そうした記号と同じ性質をもつ物体を表現すべきである〉は、必ずしも絵画が色彩、形姿の表現に優れていることを根拠としていない。それに対し、銭鍾書は芸術の色彩や形姿の表現に着目し、それを基準として詩の絵画に対する優位を説いている。また、「物体」に関して、「個別の物体」や「諸物体の関係」の表現について議論を具体化している。こうした分析は『ラオコーン』原典や中国の他の「ラオコーン論」には見られないものである。

 これと関連して、銭鍾書の論は詩の構造ではなく、作品効果を重視する点にも特徴がある。例えば上記の李白詩は端正な対句であり、こうした対句表現の(修辞法の分類上の)特徴はこれまでも多く指摘されてきた(e.g. 陳望道『修辞学発凡』、佐藤信夫等『レトリック事典』)。それに対し、銭鍾書は絵画との比較において、李白詩における対句の構造は諸物体を平板に並べるのではなく、相互に干渉しあう錯綜した関係となっていることを述べている。

保田與重郎の思想形成に関する一考察 ――美術との関わりに着目して

14:05-14:45 / 遠藤 太良(京都大学)

 昭和期の思想家保田與重郎は、日本の古典文学を取り上げる一連の批評で知られている。そうした彼の思想形成についてはこれまで、マルクス主義、近世国学、ドイツロマン派の三つが大きな役割を果たしたとされてきた。とはいえ、こうした見解には「日本の古典の信奉者」という後年に一般的となる保田のイメージが大きな影響を与えており、その文業の初期において、ドイツロマン派など西洋の文学や思想に親しんでいた彼が日本の古典に関心に持つようになった契機を十分に説明できていないという問題がある。それゆえ、本発表では、後年の保田のイメージに捉われることなく、その初期の文業を当時の交友関係なども踏まえつつ網羅的に考察し、この思想家の日本の古典への関心がいかに形成されていったのかを明らかにする。

 まず、保田の初期の文業について、取り上げられるジャンルの変遷について年代毎に考察する。その後、保田が親しく交流していた人物について、彼らが発表する作品などと保田の著作の関連について検討を行う。

 以上の考察を通して明らかとなるのは、保田が日本の古典に対して関心を持った一つの契機として、美術が重要な役割を果たしていたということである。初期の保田の論考において、主として論じられていたのは、先に述べたドイツロマン派などの西洋の文学や思想、同時代の日本の文学のほか、日本の古美術であった。すなわち、日本の古典文学に先んじて古美術についての批評が展開されていたのである。また、それらの古美術は保田の故郷である奈良桜井に関連するものが多く、当時の文学運動において「故郷」ということが一つの大きなトピックとなっていたことを踏まえれば、保田は自身の「故郷」の価値を示すものとしてそれら古美術を取り上げたといえる。そして、古美術を語る中での前近代への評価はそのまま後年の古典文学についての論考へと受け継がれていることから、古美術が保田の古典文学への関心に一定の影響を与えたと考えられる。

 また、保田の古典への関心には上記の古美術だけでなく、同時代の美術の影響も指摘できる。その最たる例が棟方志功および彼が描いた《大和し美し》である。『古事記』における日本武尊の物語を描いたこの絵画の数か月後、保田もまた同じ主題を論じた「戴冠詩人の御一人者」を発表している。二人はこの作品以前より親しく交流していたことや一般的に武人として捉えられてきた日本武尊を三人の女性との関連の中で解釈している点が共通していることから、戦前の保田の古典批評を代表するこの著作に棟方およびその作品が一定の影響を与えていたといえる。

 保田の思想の形成に美術が一定の役割を果たしていたことを示す本発表は、その生前よりしばしば問題とされてきた「日本」や「伝統」に関するこの思想家の見解の実相を明らかにすることに寄与するものであり、日本の美学史や文学史を研究する上で重要なものとなるだろう。