〈一般発表・分科会14〉美学理論1

9月 1, 2021


10月10日(日) 10:20-11:45 / 司会:川瀬 智之(東京芸術大学)

ドゥルーズ&ガタリの「リトルネロ」概念を解明する

10:20-11:00 / 内藤 慧(東京大学)

 哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリは1970年代から共著活動を開始し、『アンチ・オイディプス』『ミル・プラトー』『哲学とは何か』といった大著を著わした。これらは哲学書であるが、人類学、精神分析、美学、生物学等、他の諸領域の議論を横断的に、かつそれら諸領域と密接に議論を展開する。「リトルネロ」を巡る議論はその最たるものであり、ドゥルーズはこれを「哲学の概念」として発明したと語る一方、『ミル・プラトー』第11章「リトルネロについて」は子供の歌、鳥のさえずりから、バロック・ロマン派・現代音楽という西洋音楽史の展開まで、極めて多岐に渡る音楽芸術の事例に依拠し、それらを説明する概念となっている。実際「リトルネロ」に関する研究は”ドゥルーズの音楽論”という形で展開される傾向にある(Bogue, Deleuze on Music, Painting, and the Arts, 2003.など)。本発表も、「リトルネロ」を純粋に「哲学の概念」として解明することを目論むものではないが、むしろあくまで「哲学の概念」である「リトルネロ」が、なぜ音楽芸術に強く依拠する仕方以外では議論され得なかったのか?その時「音楽」とは何なのか?という問題提起を行いたい。これは哲学と音楽・芸術の関係という、より広いトピックにまで敷衍して考えられるべきだろう。

 この「リトルネロ」や「音楽」は人間の芸術活動のみならず自然における同等の活動、例えばハバシニワシドリのテリトリー表示行動をも包含する。「芸術は動物とともにはじまる」というドゥルーズ&ガタリの言葉の通り、芸術は人間固有の活動とはみなされず、あらゆる個体が為す領土化/脱領土化の運動の一形態と考えられる。この観点からドゥルーズ芸術論は、個体を形formeではなく力forceによって捉える「生態学éthologie」的な構想に基づいて(Sauvagnargues, Deleuze et l’art, 2005.)、「非人間主義inhumanisme」という仕方で理解される(Montebello, Deleuze, esthétiques –la honte d’être un homme-, 2017.)。本発表はこのような理解を全面的に批判するものではないが、対して以下の点を強調したい。それは「リトルネロ」の3段階の議論において、人間固有の営みである西洋音楽史が辿り直され、バロック・ロマン派・現代音楽という3区分がそのまま「リトルネロ」の3段階に対応するという点である。つまり非人間主義的な構想に依拠する「リトルネロ」によって、ドゥルーズはあくまでも人間固有の具体的な芸術活動を説明しようと努めているのである。

 本発表は『ミル・プラトー』における「リトルネロ」を巡る議論を精査しつつ、「哲学」に対する「音楽」、「自然」に対する「音楽」の位置付けを検討する。哲学と芸術、芸術における人間と自然の関係、という巨大な2つのテーマを考えるための一つのケースとして、本発表は「リトルネロ」概念の解明を試みる。

ベルクソンにおける「質料の創造」の意義

11:05-11:45 / 濱田 明日郎(京都大学)

 本発表は、哲学者アンリ・ベルクソンが『創造的進化』(1907,以下EC)において語る「質料の創造」という観念を扱う。プラトン-アリストテレス的理解における形相質料論においては、質料は創造・生成の「素材」として形相に先在し、形相を「受け入れる」ものである。そしてベルクソンもまた、芸術家のなす作品の創造とは「形相の創造」であって、その質料は先在するのだ、という一般的な形相質料論に則って芸術的創造を語る。しかし他方でこの哲学者は「形相を生み出す行動が単に停止」しただけで「質料」が「創造」される、という事態を語りもする(EC240)。上述の伝統的な形相質料論からすれば、このベルクソンの議論は明らかに問題含みであろう。第一に、この「質料の創造」という逆説的な表現はいかなる事態を指しているのか。第二に、「質料の創造」なる事態と、形相に対する質料の先在性はどのように両立可能なのか。われわれはこれら二つの問いを携えて、ベルクソンが芸術家・著述家の作品制作のアナロジーによって「創造」・「発明」を語る諸テクストを読解し、ベルクソンの一見奇妙な形相質料論を、彼の特異な「創造」概念の表現として意義づけたい。

 第一に「質料の創造」とは何か。Gouhier[1989]は、ベルクソンの「創造」は単にユダヤ-キリスト教的な宗教性から来るものでもなく、ギリシャ-ラテンの伝統に連なる哲学者たちが語るような内実を欠いた概念装置なのでもない、と注意していた。こうした観点からは哲学史との断絶においてベルクソンが描かれるが、われわれは形相質料論という道具立てのベルクソン的な使用を浮き彫りにするため、あえて哲学史に身を置き直す。ここでは哲学史的な対照項としてアウグスティヌスを採り、ベルクソンにおける創造論が、形相の創造という時間的な生成と、その停止として位置づけられる、質料の創造という無時間的な生成という、「無からの創造」とは異なる「質料の創造」を語っていることを明らかにしよう。

 第二に質料の先在の問題がある。ここでは、上で述べた「質料の創造」が可能である条件としてベルクソンが付した「形相の創造が純粋な場合」・「創造的な流れが瞬間的に妨げられる場合」(EC240)という二条件に着目したい。われわれは、「形相の創造が純粋でなく」「創造的な流れが瞬間的には妨げられない場合」の「質料の創造」として、「知的努力」(1902年、『精神のエネルギー』(以下ES)所収)で描かれた「形相と質料との相互的適応」(ES182)によって成る「発明」概念を位置付ける。第一に問うた質料の創造を質料の理念的発生(cf.EC239)と名指すなら、第二に問うた創造は、質料のいわば実在的発生であり、芸術作品の創造や発明の努力といった具体相のもとで、すでになされた質料と対話的に行われる「漸進的な質料化」(ES190)なのである。