10月9日(土) 15:50-17:30 / 司会:林 卓行(東京藝術大学)
雑誌『美術新報』が提示した同時代美術・美術家像―1909から1915年の作品・作家批評を手がかりに―
15:50-16:20 / 日比野 未夢(千葉大学)
雑誌『美術新報』(画報社、1902-1920)は、美術の享受者である読者のニーズに応え、時には彼らを先導する意図をもって、多岐にわたる美術の情報を提供した。なかでも、日本における美術批評の先駆・岩村透(1870-1917)が顧問を、敏腕編集者にして自身も美術批評をした坂井犀水(1871-1940)が編集主幹を務めた1909〜1915年のあいだは、その特徴がいかんなく発揮され、隆盛期であった。近年の研究では、朴昭炫『「戦場」としての美術館:日本の近代美術館設立運動/論争史』(ブリュッケ、2012)、今橋映子『近代日本の美術思想―美術批評家・岩村透とその時代―』(白水社、2021)が、同誌の特徴として美術の社会的環境に関わる問題提起を挙げ、その先進性を評価している。これにより、保守的で地味な情報誌だという従来の見方は覆された。しかし、管見の限りでは、当時の美術界における総合美術誌としての同誌の役割に踏み込み、国内の同時代美術の動向や論争への目配せや、他媒体との連携を分析し、そのメディアとしての意義を問う包括的な研究は未だなされていない。以上をふまえ、発表者は、岩村・犀水時代の『美術新報』が果たそうとした役割に着目し、同誌に掲載された作品・作家批評を改めて分析する。
本発表は以下の順に検討を進める。まず『美術新報』に掲載された文部省美術展覧会に関する記事を整理する。同誌は、同時代の日本社会における美術の周辺環境を論じる際に、また作品・作家批評においても、文展を引き合いに出すことが少なくなかった。その上で、作品・作家批評においては、後に後期印象派と呼ばれる当時の西洋における美術の最新動向を追いかけ、感化される日本の若手作家に対する理解と苦言がみられることに着目する。ここでは今橋の見解、すなわち、顧問・岩村は文明史レベルで西洋美術史を捉え、後期印象派を一時的な流行とみなし、あえて積極的な批評を控えたという指摘をふまえ、その岩村の批評態度が『美術新報』にも共有されていたかを検証する。次に、同誌が評価した若手作家・石井柏亭(1882-1958)、南薫造(1883-1950)、山下新太郎(1881-1966)に対する批評を精読する。特に1910年代前半における洋画の新旧論争、すなわち1911-1912年の「絵画の約束論争」を皮切りに、後に二科運動へと繋がる「新画運動」に対する各作家の関わり方に留意する。可能な限り、当該期の他の雑誌・新聞の言論姿勢との比較を導入し、『美術新報』の特徴を浮かび上がらせたい。
以上により、『美術新報』のジャーナリズムとしての機能を備えた総合美術雑誌としての自負と、同誌が展開した美術批評の相関について考察する。加えて、『美術新報』が、必ずしも美術に特化していない、同時代の他の新聞・雑誌の記事を引用することで、現在進行形の芸術全般、そして社会の問題として、日本国内における美術の未来を、読者に問いかけた可能性を指摘する。
クレメント・グリーンバーグの工芸観―「装飾」との関わりを中心に
16:25-16:55 / 中嶋 彩乃(京都大学)
戦後アメリカを代表する美術批評家クレメント・グリーンバーグ(1909-1994)はその主たる批評理論として、個々の芸術の媒体固有性への還元・純粋化を唱えたことで知られる。とりわけ絵画を中心に議論を展開したグリーンバーグは、絵画芸術はその固有の性質、すなわち平面性へと還元されるべきだと主張し、その理論を後ろ盾として抽象表現主義を牽引した。その功罪についてはここ半世紀ほどのうちに多方面からの批判がなされ、すでに相対化がなされていると考えて良いだろう。本発表ではこの数ある批判のうち「工芸」という観点からなされたものに着目し、議論の緒としたい。
近年の工芸分野においては、20世紀以降モダニズム的思考こそが工芸の地位の低下を招いたとしてしばしば批判が向けられる。工芸が芸術の対立項として位置づけられたうえで純粋芸術が称揚されることで、ある種のヒエラルキーが形成されたのである。
このような状況を作り出した背景として挙げられるのがコンセプトと実制作とを分離したものとみなし、後者を従属的なものとして扱う「モダニズム的正統」の考え方であり、グリーンバーグもそれに連なるものとみなされる。概念的要件を重視し、技術を含むその他のものを誰にでも入手できると軽んじるグリーンバーグの芸術観は、このような芸術対工芸のヒエラルキー形成の片棒を担いだ代表格に数えられるのだ。
だが、グリーンバーグは工芸を直接的な主題として論を展開してはいない。そこで本発表では、その批評に度々登場することとなる「装飾」という概念を介してその工芸観を照射することを試みたい。先行研究においてグリーンバーグの「装飾(的)」という語の使用が純粋芸術と工芸の分離を示す例としていまだ現存していることが指摘されるように、絵画の範疇における「装飾」の強調は、絵画の「危機」を招く要因にほかならない。「イーゼル画の危機」(1948)で危惧された絵画の装飾化とは、純粋還元の理論を突き詰め平面化へと向かった絵画が堕落するという屈折した事態を指す。このグリーンバーグの理路においては、絵画と比したときに装飾が劣位に位置することが自明のものとして語られているように思われる。
しかし、初期の批評を見渡せば装飾化はグリーンバーグが称揚する「抽象」化に相伴って生じ得るものとして語られ、絵画にとって必ずしも否定的な要素とは捉えられてはいないことに気が付くだろう。さらに後年の論考においては装飾はもはや絵画性と対立する要素としては位置づけられていない。ここで浮彫りになるのが装飾内部での価値判断の分裂である。すなわち、絵画に許容され得る装飾と、糾弾されるべき「悪しき」装飾とが区別され、後者の性質として所謂「工芸」的な要素が振り分けられることとなるのである。以上の整理によって、グリーンバーグにおける「装飾」の位置づけの確立がいかにして「工芸」的な要素の疎外へと結びつくのかを明らかにしたい。
宮川淳の批評実践にみる理論的可能性 ──「影論争」「手仕事論争」を中心に
17:00-17:30 / 横尾 千穂(東京大学)
美術批評家・宮川淳(1933-1977)は、1960〜70年代、当時の社会構造の変調を敏感に感じ取り、現代美術を中心に、現代詩や小説、構造主義や情報理論などのアカデミックな潮流に見られる「今日的な状況」の正体を、それらに通底する「同時代性」「コミュニケーション概念の崩壊」「存在の思想そのものの解体作業」(宮川淳「ジャック・デリダと鏡の暴力 近代性─その存在の論理の否定」『SD』(1969年6月号)より引用)として明晰に捉えた。加えて、ある構造変化に直面した社会に必要な「問い直しの論理」を、その短い人生の批評実践のなかで探り続けた。
一方、同時代の日本の美術領域を言説・実践の両面でリードするのは、戦後美術批評の御三家と呼ばれる針生一郎 (1925-2010) ・東野芳明 (1930-2005) ・中原佑介(1931-2011) らの批評実践だった。しかし宮川は、彼らとは対照的に、フランス現代思想を背景に、対象の根源的な理解を求める姿勢から、難解で、社会や政治には無関心、実証性に乏しい批評家として記憶されてきた。加えて、1960年代後半以降、美術批評からは一線を引き、言語そのものへの興味や、独自の引用論へと展開していく。そのため、日本の美術界に残した印象的な足跡が度々指摘されながら、現代美術の現場には決定的な影響を及ぼしたとは言えない点において、御三家周縁の美術批評家の一人とされてきた。
本発表では、「影論争(1965~1966)」、「手仕事論争(1967~1969)」(伊村靖子(2013)『1960年代の美術批評:東野芳明の言説を中心に』(京都市立芸術大学審査学位論文(博士))参考)を中心に、1960年代後半、宮川が同時代の美術批評との関わりのなかで、自身の論理を形成していく様子を辿り直す。当時の日本の美術界は、反芸術の動向を加速させた読売アンデパンダン展の終了にはじまり、赤瀬川原平の千円札裁判に集約される前衛批判、大阪万博に頂点をみる環境芸術といった変化のなかにあった。大衆社会、複製技術、大量生産など、この時期に問題化される現代社会の様相は、芸術を論じる際の根拠や文脈として使い分けられ、多くの見解を生んでいく。またここで、芸術に広く求められた「創造性」は、両論争に共通する背景であり課題でもあった。
こうした状況に応じ、宮川は次第に「見ること」という課題を明確にし、その後、引用論へと向かっていく。しかし、当初からその道筋を見据えていたのではない。宮川の評言は、1960年代後半の議論の過程で、美術批評というカテゴリーに回収されない理論的可能性(岡崎乾二郎(2007)「批評を召喚する──かつて存在した美術批評の回顧にかえて」美術評論家連盟/編『美術批評と戦後日本美術』参照)を確かにしていく。そこで宮川が記述したものとは、「絵画の制度」や「作家の世界に対するかかわり方」といった、作品の様式的な認識とは別の水準で理解される同時代の美術動向であり、芸術制作における「創造性」の現代的なあり様であった。