10月9日(土) 15:50-17:30 / 司会:天内 大樹(静岡文化芸術大学)
ヴェルサイユ宮殿美術館と現代美術 ―歴史的な展示空間と作品の摩擦がもたらした批評と破壊行為―
15:50-16:20 / 新井 晃(一橋大学)
2000年以降、日本やフランスで現代美術の展示空間として城館や寺社仏閣など歴史的建造物を活用した事例が増加している。2019年の国際博物館会議においては、世界遺産である二条城と清水寺で現代美術の展覧会が催されており、従来のホワイト・キューブとは異なる歴史的建造物を展示会場とした。しかしながら、このような展覧会がなぜ試みられてきたのかについては未だ十分に議論されていない。本発表は、15年間の実績があるヴェルサイユ宮殿美術館を事例にその経緯と批評を確認して、展示空間と作品のあいだに起こる相互作用の一端を明らかにする。
1624年より建造が始まり、1837年に美術館として市井に開かれたヴェルサイユ宮殿は、1995年に自ら収益を捻出する文化施設公法人になると、2003年には赤字決算となった。そこでヴェルサイユ宮殿美術館は、入場者を増やすための新規軸として「ヴェルサイユ・オフ」(2004-2007)を開催した。この二日間限定の催し物において現代美術は、音楽や料理などと並んで扱われるにすぎなかった。その後2008年にはジャン=ジャック・アヤゴン総監により現代美術に特化した約三ヶ月間の展覧会「ヴェルサイユ宮殿の現代美術」となり、2019年までに世界各国から28名の作家が招聘された。
一連の展覧会は、とくに2008年のジェフ・クーンズと2010年の村上隆の展覧会を中心に多様な批評と反応を引き起こした。フランスの美術月刊誌は、豊富なコレクションを持ち、一定の訪問者も獲得しているヴェルサイユ宮殿美術館に現代美術を加える必要があるのか、疑問を示した。他方、フランスの小説家が指揮する有志団体は反対表明としてデモや署名活動をおこない、ルイ14世の子孫は展覧会の中止を求める嘆願書を国務院へ提出した。こうした批評と反応は、両作家が現代美術の経済性を重視しており、豪華絢爛なこの場所での展示が作品の市場価値向上へ繋がるゆえに生じていた。 続く2012年のジョアナ・ヴァスコンセロスの展覧会では、作品一点の展示を事前に許可しなかった措置に対して、検閲ではないかと議論が巻き起こった。そして2015年に招聘されたアニッシュ・カプーアはヴェルサイユ宮殿という場所を活かして作品を選び設置したものの、一部の作品がフランスの歴史を揶揄していると大論争が巻き起こり、二回の破壊行為へと発展した。本事件に対しては嘆く反応のほかに、近代美術史において物議を醸すことで新しい価値を創造してきた作品の系譜に連なるとも評された。
以上のように、ヴェルサイユ宮殿を用いた現代美術の展示は、作品がこの場所の歴史や文化を想起させるとき、人々の意識を歴史的建造物へと誘う役割を果たしていた。コロナ禍のいま、実際の展示空間への来訪が困難となり、ヴァーチャル技術を駆使した展覧会が盛んに試みられている。観光とも関連の深い歴史的建造物での現代美術展覧会だが、作品と場所の双方へ注意を向けさせる役割において、コロナ終息後も重要な価値があるだろう。
「マコム(makom/場)」概念の考察に基づくダニ・カラヴァン作《人権の道》解釈の試み
16:25-16:55 /早坂 若子(慶應義塾大学)
本発表では、イスラエル出身の現代彫刻家ダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930-2021)がドイツ、ニュルンベルク市に制作した《人権の道》(1989-1993)を対象とし、カラヴァン特有の「場」理解である「マコム(makom/場)」概念の考察を踏まえ、その作品解釈を試みる。
ダニ・カラヴァンは、作品の「形と素材は、その場が要請する」と主張し、20世紀後半以降、世界各地に立体造形作品を制作してきた。そのような作家を、先行研究は「サイト・スペシフィック・アート」の先駆者として位置づけてきた。しかし、この文脈でカラヴァンを検討する先行研究には、カラヴァンの造形を、作品が設置される場所に特有な歴史的意味性に安易に結びつけて解釈する傾向が否めない。その一つの好例が《人権の道》である。ナチス党大会が開催され、またニュルンベルク法が制定された都市、ニュルンベルク市の旧市街地に設置された《人権の道》は、列柱、樫の樹、門で構成され、列柱一本一本には世界人権宣言の全30条文が30の言語で彫られている。そのような当該作品について、ユレ・ロイターはファシズム的造形様式との一致を指摘し、また、ドイツ現代史研究では、同市によるナチス・ドイツからの克服を体現する事例として名指しされる。
こうした見解の陰で見落とされてきたのが、《人権の道》オープニングセレモニー(1993年)での作家自身の発言である。「これはホロコーストの追憶の場ではない、記念碑でもない。人間が通り抜ける道である」の真意を考慮するならば、作品が設置された「場」と造形の連関にあらためて着目し、《人権の道》の再解釈を試みる意義は少なくない。
そのために発表者が重視するのが、英語の「サイト(site)」よりも広い意味を持つヘブライ語の「マコム(makom/場)」である。「マコム」は物理的な場のみならず、その歴史的、文化的背景に由来する情緒的な「現在(presence)」をも含意する概念である。「マコム」とカラヴァンの芸術制作との密接な関係性は、シオニズム運動の下、1948年にカラヴァン自ら創設し、1955年まで生活を営んだ共同体「キブツ」での芸術制作にまで遡って検討することができる。重要なのは、「マコム」概念が「場」へ積極的に関与する人間存在を本質的に含意する点である。本発表では、これまで十分な検討の機会に恵まれてこなかったこの点に留意し、一次資料であるゲルマン国立博物館アーカイブで入手した当該作品に関連する資料類、および発表者がカラヴァン本人に行ったインタビュー(2019年)から得た知見を精査することで、《人権の道》の造形的源である「場」には、当該作品に隣接する建築物、ニュルンベルク市の旧市街地という都市空間に加え、そこを歩く人間の存在が意図されていたという解釈を提示する。
日本万国博覧会の磯崎新:反博運動との関連から
17:00-17:30 / 鯉沼 晴悠(京都工芸繊維大学)
本発表は、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会を巡る推進派と反対派との政治的力学の内部において、建築家磯崎新[1931-]の実践を再検証することを目的とする。
磯崎の日本万国博覧会は、1966 年 2 月に会場基本計画原案作成委員会チーフ・プランナー丹下健三のもと、コア・スタッフとして招集されたことに始まる。その後、磯崎は環境芸術を志向する美術家らとともに「日本万国博覧会イヴェント調査委員会」を組織し、《お祭り広場》内部の《お祭り広場・諸装置》の設計者として万博の仕事に従事する。
これまでの戦後日本美術史や戦後日本建築史において、磯崎が試みた「インヴィジブル・モニュメント」としての《お祭り広場》は、日本万国博の主力となった環境芸術との連続線において論じられる傾向が強かった。そのような文脈においては、テクノロジーによる非構築性や非実体性、あるいはメディア・イヴェントとしての先駆性が強調されてきた。しかし、椹木野衣が『戦争と万博』(2005)で指摘したように、政治的な背景を抜きにして日本万国博参加者の実践は十分に語り得ない。なぜなら、万国博開催前夜の1960年代後半は世界規模でエスタブリッシュメントに対する抗議運動が展開された時期でもあったためである。ベトナム反戦運動や三里塚運動の激化に伴い、国家主導の祭典である日本万国博もまた批判の対象とされ、万博反対運動、いわゆる「反博運動」が展開された。
本発表では磯崎の日本万国博での実践を再検討するにあたって、これまで傍流とされてきた「反博運動」の理論的支柱を担った針生一郎と多木浩二の言説分析を経由する。その異化作用によって磯崎が《お祭り広場》に含み込んだ多極的な性格の表出を試みたい。針生らは、日本万国博への参加それ自体を体制加担と見なすとともに、環境芸術に対してもテクノロジーの持つ合理化の論理が人間性を疎外するとの主張から批判していた。多木が『デザイン批評』季刊第8号(1969)に寄稿した磯崎新論で指摘したように、批判者の論理の中で磯崎は、これまでの芸術実践を特徴付けていた否定性が争点となり、転向問題として日本万国博を巡る賛否の議論の典型例に位置付けられていく。
こうした状況下で設定された《お祭り広場》のコンセプト、「インヴィジブル・モニュメント」は一見、電気的媒体に満ちた現代都市を考察した「見えない都市」論の具現化の試みと理解される。しかし、磯崎が万国博閉会後に記した論文からは、そこで強調された不可視性が、体制の側に属する旧来のモニュメントやテクノロジーの性格を超克する手立てとしての意味を持っていたことが窺える。《お祭り広場》は、磯崎の現代都市認識に基づいたものであると同時に、体制の求心力からの逃亡を周到に意識した、万国博内部における磯崎の政治的な振る舞いの現れでもあったのである。