〈若手フォーラム・分科会10〉音楽2

9月 1, 2021


10月10日(日) 9:00-10:05 / 司会:増田 聡(大阪市立大学)

ロシア正教会の作曲家としてのP. I. チャイコフスキー

9:00-9:30 / 宮路 星史(関西学院大学)

 チャイコフスキーの宗教的合唱曲は10作品ある。本発表は、その中から特によく歌われる《聖金口イオアンの聖体礼儀》作品41(1878、以下《聖体礼儀》)と《徹夜祷》作品52(1882)を分析し、チャイコフスキーとロシア正教会音楽の関係性を考察するものである。

 チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky, 1840-1893)は、西欧音楽史においては、西欧的な書法とロシアの民族性を止揚した、民族的な作曲家として評価されている(高橋ほか、1996)。一方で、同時代のロシア国内において民族的と評されることはほとんどなく、むしろその作風や同年代の「ロシア五人組」ら国民楽派の作曲家たちと距離をとっていたことから、「西欧化された作曲家」と評される傾向にある(森田、1993)。このような相対する評価の中、チャイコフスキーが民族的か否かに関しては研究が進められてきたが、彼がロシア正教会の音楽を作曲している事実については、これまであまり研究されてこなかった。

 そこで本発表では、チャイコフスキーが作曲したロシア正教会の音楽に着目する。ロシアでは、988年に正教会を受容してから17世紀ごろまで単旋律聖歌が歌われてきた。17世紀以降になると、ロシアの伝統的な単旋律聖歌に由来する多旋律聖歌に加えて、西欧の合唱聖歌に由来する多旋律聖歌が登場する。そして18世紀ごろには西欧音楽の影響がより強まり、伝統的なスタイルの聖歌は作られなくなった。しかし19世紀になると、伝統聖歌に関心を持つロシア人作曲家が現れ、伝統聖歌の旋律に西欧音楽的な和声を付けるなどのアレンジが行われた。このように伝統聖歌への関心が高まる中、19世紀末にチャイコフスキーは正教会の音楽を作曲したのである。

 発表の中心は、《聖体礼儀》と《徹夜祷》の分析を通して、実際にロシア正教会で歌われている聖歌との共通点を指摘することであり、以下の3点である。一つ目は楽曲の形態である。両作品は現在のロシア正教会聖歌と同様に、混声四部の無伴奏合唱曲である。正教会では伝統的に儀式で楽器を用いることを禁止していること、及び17世紀以降に主流になった合唱形態をふまえて、チャイコフスキーはこの形態で本作品を作ったと考えられる。二つ目は、正教会の儀式における本作品の位置付けである。両作品は正教会の儀式に使われる曲集で、歌詞はロシア正教会聖歌と同様に、詩篇や教義の内容が教会スラヴ語で書かれている。三つ目は、楽曲の構造である。楽曲分析から、同時代の西欧音楽にはあまり見られない主和音から主和音への転調や、無拍子である伝統聖歌のリズムを模した拍子を感じ取り難いパッセージ、伝統聖歌の旋律の引用が挙げられる。以上のロシア正教会聖歌と共通点をふまえ、チャイコフスキーが正教会の作曲家としての側面を有していることを明らかとする。

明治30年代の西洋音楽と「教養主義」との結びつき―明治30年代の石倉小三郎による音楽評論から

9:35-10:05 / 西澤 忠志(立命館大学)

 本発表は日本の音楽評論家である石倉小三郎(1881-1965)が明治30年代に発表した西洋音楽史に関する評論をもとに、教養主義に基づく西洋音楽鑑賞が重視され始めた過程とその思想的背景を明らかにする。

 日本において西洋音楽を芸術と見なした上で鑑賞する動きは、明治30年代から旧制高等学校出身の新興知識人によって行われた。これは「傑作」と見なされた西洋音楽の知識を得た上で鑑賞しその精神を感受する、教養主義に基づいた音楽鑑賞である。これについて岡田(2000)、加藤(2006)は、知識と教養によって他の階層との差異を示すために、学生文化の中で行われたこと音楽鑑賞であると指摘している。しかし先行研究では、それまで芸術とは見なされていなかった西洋音楽が芸術として扱われ、教養主義と結びついた過程とその理由については触れていない。本発表はこれらの点を明らかにするために、西洋音楽が芸術と見なされ始めた明治30年代に西洋音楽史を日本に紹介し、受容することの重要性を論じた石倉小三郎を対象とする。

 石倉は音楽評論家・訳詞家として、西洋音楽史と音楽学の紹介、オペラ《オルフォイス》や《流浪の民》などの外国語曲の訳詞に携わった。特に彼の業績の一つとして挙げられているのが、1905(明治38)年に出版した『西洋音楽史』である。『西洋音楽史』は、東京帝国大学教授ケーベル(Raphael von Koeber, 1848-1923)の助言に基づき、ブレンデル(Franz Brendel, 1811-1868)などの音楽史をもとに、ギリシャ音楽からワーグナーまでの西洋音楽史の展開をまとめたものである。そして、この本を出版するまでに得た知識をもとに、石倉は音楽雑誌と文芸雑誌で西洋音楽史の知識を受容する必要性を論じた評論を発表した。

 本発表は、『西洋音楽史』を中心とする明治30年代に石倉小三郎が発表した音楽評論の読解と彼が参照した文献との比較を行う。

 本発表は、同時代の文明や精神を反映した芸術である西洋音楽の知識を得、その精神的内容を理解することは、過去の作品や音楽の偉大さを想起させるだけでなく、客観的立場から音楽を評価する際の基準となり、音楽界の進歩に貢献することができると石倉が音楽評論を通じて主張したことを示す。加えてその背景として、日露戦争直後の「文明国」としての自意識、西洋音楽の演奏会の増加、ケーベルを通じた「文化」を重視する態度とドイツ中心の音楽観の受容を指摘する。

 以上を通じた本発表の意義は、同時代の日本社会や受容された思想との関わりを明らかにすることにより、教養主義的な西洋音楽鑑賞が学生文化に留まるものではなく、同時代の社会に対する問題意識の中で生み出された点を指摘することにある。