〈一般発表・分科会1〉絵画

8月 5, 2021


10月9日(土) 13:20-15:30 / 司会:足達 薫(東北大学)

栄えあるイメージとイデオロギー ――パーシー・エルンスト・シュラムによる中世支配者の図像研究

13:20-14:00 / 二宮 望(京都大学)

 ドイツの中世史家パーシー・エルンスト・シュラム(1894−1970)は、青年期に美術史家アビ・ヴァールブルクの薫陶を受け、その後オットー朝のドイツ皇帝を中心にした歴史研究に向かった。彼の一九二〇年代のテクストにはこのハンブルクの美術史家の影響が顕著であり、そこでは図像資料が積極的に活用された。第一次大戦の敗北を経験したシュラムは、同時にワイマール期に蔓延していた愛国主義的な風潮をも共有していた。本発表は、この時代の彼のテクストを読み解くことで、中世を美化するファンタスムが彼のイメージ論といかなる共犯関係にあったのかを明らかにする。

 第二次大戦中はナチ体制下の国防軍最高司令部首脳部(Wehrmachtführungsstab im Oberkommando der Wehrmacht)における戦争日誌の責任者、戦後は中世権力象徴研究の大家という屈折した肩書は、以後この歴史家の取り扱いを厄介なものにした。つまり先行研究では、ナチスへの関与を糾弾し、その学術的貢献を等閑視するか、はたまたそうした負の過去については口をつぐみ、もっぱら戦後の高水準な象徴研究だけを持ち上げるか、どちらかの論調に落ち着く傾向がある。しかし本発表は、むしろこの歴史家を全体主義に近づけた厄介さのうちにいまだ考察に値するものを見出す。むろん、こうした逆説的な態度は、シュラムを歴史修正主義的に是認することではない。彼の支配者図像研究に潜んでいたイデオロギーを、歴史学の、あるいはイメージ研究の問題として引き受けなおすことこそがここでの課題なのである。

 本発表は、まずシュラムの初期エッセイ「中世に対するわれわれの関係について」を取り上げる。歴史に沈潜することで中世の真価を見極めようとするシュラムの態度は、同じ時期にセンセーションを巻き起こしたエルンスト・カントーロヴィッチの『皇帝フリードリッヒ二世』と合わせて考えると興味深い。この二人の中世史家は、各々の仕方でドイツ皇帝の中に政治的英雄の姿を幻視した。シュテファン・ゲオルゲの栄華な詩句を想像力の源泉としたカントーロヴィッチに対し、シュラムは文字通り中世の支配者イメージの中にファンタスムを見たのである。

 ヴァールブルク文庫での講演をもとにした論文「初期中世美術における支配者イメージ」は、こうした文脈において示唆的である。この論文でシュラムはヴァールブルク流の図像定型論を駆使し、政治神学と結びついた皇帝の権力表象を分析した。そこで浮かび上がってくる「皇帝の栄光」とは、緻密にして横断的な歴史学の帰結であり、そしてまたそうした解釈を可能としたイメージ研究の条件でもあった。支配者イメージを眺めるシュラムの眼に映っていたのは、輝きに満ちた皇帝の崇高さではなかっただろうか。本発表は、シュラムの政治的図像学に内面化されていた「栄光」という美学的位相の解明を試みる。

オディロン・ルドン作《出現》 (1883)再考―目を閉じた頭部と黒い球体の重なりにあらわれる死生観 ―

14:05-14:45 / 山上 紀子(大阪市立大学)

 オディロン・ルドン(Odilon Redon 1840-1916)が1883年に制作した木炭画《出現》(ボルドー美術館蔵)は、1876年のサロンで注目を集めたギュスターヴ・モローの水彩画《出現》(1876)と繰り返し比較されてきたが、モロー作品との類似以外にはなんら手がかりのない解釈困難な作品とみなされている。洗礼者ヨハネの死と宿命の女サロメを描いたモローの作品からルドンが影響を受けたことはまちがいないが、スヴェン・ザントシュトレームが述べるように、ルドンはモロー作品のイメージ全体を徹底的に変容させることによって自分の個性を強調した。

 ルドンの独創性はとりわけ、画面の中央に描かれた目を閉じた頭部と黒い球体の重なりに発揮されている。苦しみとも安らぎとも判別しがたい表情をたたえて光を放つ頭部は誰のものなのか。なぜ目を閉じているのか。黒い球体は何か。黒い球体が頭部の一部を覆い隠している様態は何を意味するのか。脈絡なく寄せ集められたように見える複数の要素が、ここに想起される死の意味を確定することを妨げ、観る者を困惑させてきた。ダリオ・ガンボーニを端緒とする近年の研究動向では、ルドンが獲得したこのような曖昧性や多義性という美学に注目が集まっている。また1994年のシカゴでの展覧会以降、ルドンが同時代の自然科学や社会動向からさまざまな着想を得たことが明らかにされてきた。

 本発表では、まずこの作品を1883年頃のフランスのさまざまな出来事に照らして、着想源を新たに検討する。少しずらして重ねられた頭部と黒い球体には、普仏戦争への従軍や知人の死などルドン自身の体験に加えて、神秘主義、倒錯的趣味、結核の流行、ギロチン廃止論、ズールー戦争などからルドンが受けた印象、とくに戦争や処刑などの残酷な死の諸相に揺さぶられる倫理観を読み取ることができる。ただし、死刑制度の廃止を訴えたヴィクトル・ユゴーらとちがって、ルドンはその是非を問うてはいない。

 また同じ1883年に発表された、《出現》と、石版画集『起源』と、4点の木炭画との関係も指摘できるだろう。『起源』は進化論から、木炭画はエドガー・アラン・ポーの殺人小説から想を得ているが、いずれも高度に抽象化された表現によって源泉を超越し、恐怖、悲しみ、興奮、諦観などのさまざまな感情を喚起する。このように上記作品群には、一方で、死への嫌悪や恐れ、他方で、死への憧れや美化というロマン主義的な死生観の二重性があらわれている。さらに、同一形態モチーフの連鎖、類似する主題の統合というルドンの造形手法を考察することは、1880年代に意味の確定から逃れて多義性を獲得し抽象絵画へと向かっていった過程を具体的に明らかにする意義をもつはずである。

田能村竹田の文人画論再考 ——「拙」およびそれ以外の主要概念との関係性について

14:50-15:30 / 島村 幸忠(京都芸術大学)

 江戸時代後期を代表する文人画家・田能村竹田(安永6〔1777〕年〜天保6〔1835〕年)による文人画論の軸をなす概念のひとつに「拙」がある。本発表は、その「拙」の再考を通じて、竹田の文人画論の解明を目指すものである。

 竹田の画論における「拙」の重要性およびその理解の困難さについては、すでに石川千佳子「田能村竹田の画論における『拙』について」(1993)、黒川泰三「田能村竹田の『拙』」(1998)などにおいて論じられてきた。これらの研究によれば、「拙」とは、それが肯定的な意味で用いられる場合には、「巧」との対立を超えたところで表現される独自性を示すものであるとされる。ところで、これらの先行研究においては「拙」の意味分析がそれ単独で行われており、結局、竹田の画論において「拙」がいかなる役割を担っているのかについての分析が行われていない。しかし、竹田の画論を構成する主要な概念は「拙」だけでなく、「迂」、「自娯」、「暢神」などもある。そして実際、「拙」は「迂」に、「迂」は「自娯」に、「自娯」は「暢神」に、それぞれが連関しあっている。それゆえ、それらの概念との関係性のなかで「拙」を捉えなければ、「拙」の重要性や意味を十分に理解したことにはならないのではないだろうか。あるいはまた、他の文人による画論との比較も行われてこなかった。竹田が活躍した時代は、坂崎坦が『日本画の精神』(1942)にて指摘している通り、日本の文人画論の最盛期であった。

 以上の問題意識のもとに、本発表では、まず、竹田の画賛を集めた『自画題語』(前編は文政12〔1829〕年、後編は天保12〔1839〕年)や文人画論『山中人饒舌』(天保5〔1834〕年)などを参照しつつ、「拙」がいかに論じられているのかを再確認する。その際、前掲の研究では、中国の文人たちによる「拙」の使用の歴史的変遷が看過されているので、その点も考慮に入れつつ考察する必要があるだろう。次に、竹田の盟友のひとりである浦上春琴(安永8〔1779〕年〜弘化3〔1846〕年)の『論画詩・続論画詩』(天保14〔1841〕年)において「拙」がどのように論じられているのかを確認し、竹田における「拙」を相対化すると同時に、その独自性を確かめる。最後に、竹田の画論において、「迂」や「自娯」などの概念を介して、「拙」と「暢神」が結びついていることを示す。そうすることで、画業における技術的な問題や文人の渡世の問題だけでなく、「拙」が養生の問題にも通じる概念であることを明らかにする。